徳川家による「江戸時代」が終焉し、国際社会へと足を踏み出す「明治時代」へと時代が劇的に移り変わるにあたり、多くの優秀な人財たちが命を落とす多くの出来事がありました。
土佐藩出身の坂本龍馬は、その代表的な例として取り上げられることも多いですが、メディアなどではあまり取り上げられない、優秀な人財たちが犠牲になってきた事実があります。
『維新十傑』として、明治維新の実現に具体的に貢献した10人のうちの1人に挙げられるものの、坂本龍馬や勝海舟らに比べると、ドラマやメディアなどでも取り上げられにくい人物として、熊本藩(肥後藩)出身の「横井小楠(よこい・しょうなん)」がいます。
1809(文化6)年に、熊本城下の内坪井で生まれた横井小楠(=以下、小楠)は、8才で熊本藩の藩校「時習館」に入ると、その明晰さゆえにすぐに頭角を現し、4年後にはすでに時習館居寮長(塾長)を務めています。
その一方で、小楠の明晰さから発せられる言葉は、現状の否定、つまりは、熊本藩自体を否定する言葉のようにも捉えらえ、しだしに熊本藩の多数派からは疎(うと)まれるようになり、孤立を深めていきます。
逆に、熊本藩の現状に満足できず、熊本藩の未来をより良くしてきたい若者が、小楠を慕うようになり、私塾「四時軒」を開き、明治期の言論界をリードした「徳富蘇峰」の父にあたる徳富一敬らが入塾するようになります。
小楠の学問に対する姿勢は、「学問を学問で終わらせてはいけない」として一貫しており、学んだ後は実践し、何らかの形にしてくことを追求したたため、小楠やその弟子たちは『実学党(じつがくとう)』と呼ばれていました。少数派として、学校派と呼ばれる多数派に敬遠されることが多かった実学党は、“熊本の維新”の推進役を果たし、北里柴三郎らを輩出し、熊本大学医学部のルーツとされる「古城医学校」を設立するなど、熊本の近代化に大きく貢献しました。
また、小楠においては、その才能を、熊本藩よりも福井藩で高く評価され、福井藩主「松平春嶽」が幕府の政事総裁職を務めたことから、小楠は幕府の『政治顧問』という立場を務めるようになります。
その時に深い関係になり、意気投合したのが、軍艦奉行の立場にあった「勝海舟」でした。勝海舟の勧めで、坂本龍馬も小楠を知り、次第に小楠の教えに感化を受けるようになります。実際、龍馬が唱えた「船中八策」は、小楠の「国是七条」が基になっているとも言われています。龍馬は、熊本の小楠のもとへ3度訪れており、そのうちの1度は、龍馬が小楠に明治新政府での要職を引き受けるよう頼んでいます。
小楠は体調不良により、明治新政府への出仕を断っていましたが、最後は要請を引き受け、「参与」として新政府入りしました。しかしながら、それから1年も経たない1869(明治2)年1月5日午後、6人組の襲撃を受け、短刀1本で応戦するも、暗殺者たちにより命を落とします。
卓越した先見性を持ち、知性に裏づけられた行動力・感化力で幕末期と明治維新期の日本をリードし続けた横井小楠。明治新政府で最初に暗殺されたという事実も、裏を返せば、小楠の影響力の大きさを物語っていたのかもしれません。
(横井小楠の言葉) 尭舜孔子の道を明らかにして 西洋器械の術を尽さば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ (~小楠が甥・左平太と大平に宛てた『送別の語』より~)
<関連する場所> 四時軒・横井小楠記念館 横井小楠と維新群像(高橋公園) 福井ミュージアムズ 横井小楠殉節地