1863(文久3)年、肥後国葦北郡水俣郷(現在の熊本県水俣市)で代々、名主(惣庄屋)を務めていた肥後藩郷士の家の長男として生まれました。本名は猪一郎(いいちろう)、字は正敬(しょうけい)。筆名に菅原正敬、大江逸など。雅号に蘇峰、山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。実弟には小説家・徳冨蘆花がいます。
蘇峰の父・徳富一敬(1822~1914)は、幕末維新の大思想家・横井小楠の一番弟子で、母の妹も小楠に後妻として嫁いでおり、肥後実学党の指導者として藩政改革等で活躍した人物でした。
蘇峰9歳の時、兼坂止水(1833~1901 / 兼坂諄次郎)の私塾・衆星堂に学び、後に熊本洋学校に入学。米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受け、宮川経輝、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正らとともに「熊本バンド」を結成し、プロテスタント・キリスト教に改宗しました。熊本洋学校が閉鎖されると13歳で上京し、東京英語学校(後の旧制一高)を経て、京都の同志社英学校に転入学。1876(明治9)年には、同志社創設者の新島襄から洗礼を受けています。
1880(明治13)年、同志社英学校を卒業間際に自主退学し、帰郷して自由民権運動に参加。1882(明治15)年、熊本県飽託郡大江村(現在の熊本市大江)の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。後にアジア諸国の民主化運動を支えた宮崎滔天らも学びました。国家主義的な日本の未来を憂い、民衆による自由・平等・平和を特徴とする近代化「平民主義」を提唱し、1886(明治19)年、24歳のときに日本の行く末に警鐘を鳴らした著書『将来之日本』が評判となり論壇デビューを果たします。その後、本格的に東京に転居し「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰。さらに1890(明治23)年には国民新聞社を設立し『国民新聞』を創刊しました。その後も『国民叢書』『家庭雑誌』『国民之友英文之部』などオピニオン誌を発行し、民友社からは山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩など文筆家を輩出させるなど、明治時代を代表するジャーナリストとして活躍しました。
その一方で、32歳のとき記者として日清戦争の旅順攻囲戦に従軍したことが、蘇峰にとっての転機となります。1895(明治28)年に日本政府がロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服し、清国から割譲された遼東半島を返還したことに絶望。これを機に日英米同盟論を展開させ、次第に平民主義から国権論・帝国主義・皇室中心主義へと転じていきます。
1897(明治30)年、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任すると、山縣有朋や桂太郎ら政治家との親交を深め、後の桂内閣では、艦隊増強案や日露戦争開戦を強力に後押し、第1次~第3次桂内閣まで桂太郎を支援したことから蘇峰の「国民新聞」は御用新聞として世間から批判されます。1911(明治44)年、自身も貴族院勅選議員にも選任されますが、1913(大正2)年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は言論人に立ち返ることを公約して時事評論に健筆をふるいます。
1918(大正7)年、55歳のときライフワークとなる『近世日本国民史』の執筆をスタートし、大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、神奈川県逗子にある別荘(老龍庵)で『近世日本国民史』を執筆中に罹災しています。関東大震災後に根津財閥の根津嘉一郎や河西豊太郎らに国民新聞社が買収され、1929(昭和4)年に自らが設立した国民新聞社を退社することになると、本山彦一により大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の社賓に迎えられます。
その後も、1931年の満州事変を契機に軍部との結びつきを強め、太平洋戦争(大東亜戦争)では、日独伊三国軍事同盟を近衛文麿首相に建白し、開戦時には東條英機首相の依頼で大東亜戦争開戦の詔書を添削しています。1942(昭和17)年に設立された戦時言論統制の機関『日本文学報国会』『大日本言論報国会』では、いずれも会長を務めました。
敗戦時はポツダム宣言の受諾に反対し、戦後はGHQによるA級戦犯容疑で自宅拘禁されましたが、後に不起訴となりました。1946(昭和21)年の公職追放で貴族院勅選議員を辞して静岡県熱海市に蟄居。言論人としての道義的責任から文化勲章(1943年に受章)も返上しています。92歳まで著作活動を続け、1957(昭和32)年、熱海の晩晴草堂にて、94歳で亡くなりました。
(徳富蘇峰の言葉) 人生は一種の苦役なり。 ただ不愉快に服役すると 欣然として服役するとの相違あるのみ。
<関連する場所> 徳富記念園 花岡山(熊本バンド・奉教の碑) 水俣市立蘇峰記念館 徳富蘇峰記念館(神奈川県中郡)