「宮本武蔵」についての意外と知られていない事実として、『武蔵はその生涯を熊本の地で終えた』というものがあります。
1640(寛永17)年、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれた武蔵は、その後の約5年間を熊本で過ごし、熊本で生涯を終えます。また、死を迎えるまでの最期の1年余りは、「霊巌洞」(れいがんどう)という洞窟に籠(こも)りながら、自身の人生の集大成として「五輪の書」を執筆します。
五輪の書の中身は、「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」の5つで構成されており、今なお兵法書のみならず、ビジネス書などにも応用されるなど、日本のみならず、世界中の人たちに影響を与え続けています。
それゆえ、武蔵にとっての“聖地”とも言える「霊巌洞」は、人混みができることはないものの、日本のみならず、世界の武蔵ファンが訪れる場所でもあります。
単に剣術で勝ち続けただけではなく、その勝ち続けた『原因』を顧(かえり)み、万人が取り入れることができるように『体系化』したからこそ、武蔵は今なお光を放つ存在であり続けています。まさに、武蔵の人生が集約した場所が熊本であり、晩年を過ごした霊巌洞であったと言えるでしょう。
なお、死後も藩主を見守りたいという武蔵の遺言により、参勤交代の行列が通る大津街道(おおづかいどう、現在の県道337号)沿いに墓が建てられたと言われており、そこが現在の「武蔵塚公園」です。園内には、武蔵の墓所のほか、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園となっています。
また、熊本での武蔵は、剣術家としてだけでなく、多くの水墨画を描くなど、芸術家として多くの時間を過ごしました。そうした武蔵の芸術作品などを中心的に取り扱っている美術館として知られるのが「島田美術館」です。
ほかの美術館では目にすることができない、武蔵が創作した作品を展示しています。例えば、水墨画「枯木鳴鵙図」や、剣に使う「左右海鼠透」の鐔(つば)など、画人・芸術家として過ごした武蔵の姿を垣間見ることのできる貴重な美術館でもあります。