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細川 重賢(ほそかわ しげかた)

困窮する熊本藩の財政再建に着手し、自らも質素倹約に努め、「宝暦の改革」と語り継がれる改革を断行した人物。それが、“肥後の鳳凰”とまで賞賛された熊本藩第6代藩主「細川重賢(ほそかわ・しげかた)」です。

また、その改革が永続できるようにと、江戸時代中期の幕藩体制の中では他に例をみないような人財育成のための学校「時習館」を創設しました。そこでは、藩の将来にとって有用な人物を育てるために、武士以外の身分や他藩の者であっても入学を許すなど、当時としては類を見ない学校でした。

重賢は1721(享保5)年に生まれたとされており、第5代藩主の宗孝は、重賢の実兄でした。第3代藩主・綱利による藩政が続いた間の浪費や支出の増大による財政危機を引きずっており、今でいう銀行の役割も担っていた鴻池家が熊本藩との取り引きを打ち切るなど、当時の熊本藩は参勤交代の費用すら捻出できない状況にまで陥っていました。

熊本藩の厳しい財政の中では、藩主の実弟と言えど、江戸屋敷での質素な生活が当たり前になっていた重賢に、突然、実兄の第5代藩主・宗孝が暗殺されたとの報が入ります。しかもそれは、その後の幕府の調べによって、人違いで暗殺されたということが明らかになります。

まさに熊本藩としては財政が底をつき、その上、藩主さえも人違いによって暗殺されるという最悪の局面で、重賢が第6代藩主として出発します。

改革が容易でないことをわかっていた重賢は、すでに家老などの身分が与えられ、既得損益の上に居座ることが当たり前になっている面々を一気に入れ替えることはせず、堀平太左衛門など、これまでは変わり者とされ、自分の上司を含む周囲への心遣いにも問題があるとされていた人物たちを、改革の実行者に任命し、彼らに全権を委ねていくという策を取ります。

当然ながら、これまで安定して高い役職を与えられてきた家柄の家老たちなどによる反発はすさまじく、改革の実行者らに直接圧力をかけようとする動きもあったようですが、重賢自らが古い家老らの聞き役や相手役となり、改革の実行者らに直接の影響が及びにくいようにし、改革の実りが出るまでの“時間稼ぎ”を行っていきます。

そうした癖のある実行者たちを改革の中心に据えたチームプレイにより、少しずつ、しかし着実に熊本藩の財政は上向いていきます。

一方、そのように厳しい財政下にありながら、人財育成のための時習館への経費は手厚く、学費や生活費は無料にし、その分、定期試験などを設け、確実に入学者がレベルアップしていくための環境づくりにも徹していました。

また、重賢自身が勤勉であり、医学や薬草などへの関心も高く、時習館の後には医学校「再春館」や薬園「蕃滋園」も開設しています。蕃滋園(ばんじえん)が明治の廃藩置県で廃園となり、そこに植えられていた薬木薬草150種は、1890(明治23)年に第五高等中学校(五高)に寄付され、五高の植物園に植栽されていました。現在の熊本大学薬学部の「薬用植物園」に現存するモクゲンジ、テンダイウヤク、サンシュユ、サンザシ、ニンジンボクなどは、その後、教育制度改革により、旧制高校の廃止とともない、五高の植物園から移植されたものです。

時習館も、時が経つにつれ、「改革よりも保守」「海外も含めた幅広い知識を吸収するよりは日本古来のものを敬う」などを主張する人たちも現れ、実学党、学校党、勤皇党などのようなグループが生じるようになります。

熊本や日本の幕末・明治維新に多大な影響を与えた横井小楠は、重賢の改革の精神に近い「実学党」を形成し、後にそのメンバーらが“肥後の維新”と呼ばれる熊本の経済・農業・教育などの改革を抜本的に行っていきます。

今なお熊本には、さまざまな分野に、そうした改革者らの足跡や精神が色濃く残されています。そしてその改革の出発点が、宝暦の改革を成し遂げた細川重賢であることを忘れてはならないでしょう。

(細川重賢の言葉)
●「時習館」設立にあたり秋山玉山教授と交わした会話より
汝(なんじ)は国家の大工殿ぢやが、外(ほか)に頼む事としては無し。我がまつぼり(方言=学生)の者どもを導き呉(く)れるに、一(ひ)と所に橋を掛ぬ様にして、向こう岸に渡してくれよ。川上の者は川上の橋を渡り、川下の者は川下の橋を渡り行かば、その者ども、廻り道なしに、才能をなすべし。兎(と)にも角にも、河向(かわむこう)の孝悌忠臣の道にさへ、橋を掛けてもらへば、我が用には立つべし。その橋のかけ所は、汝が心にあるべし。
(~銀臺拾遺~)
<関連する場所>
時習館跡(熊本城二の丸公園)
薬用植物園(熊本大学薬学部大江キャンパス)
妙解寺跡
三賢堂

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