歴史的には未だ評価が追いつかないほどに、取り組んだことのスケールが大きく、日本を超えて「アジアの近代化」を牽引した人物、それが宮崎滔天(みやざき・とうてん)です。
滔天は1871(明治3)年に現在の荒尾市で、郷士の家庭の8男として生まれました。
日本や世界の近代化に身を投じた「荒尾の宮崎4兄弟」の1番下であり、清王朝からの近代化を図ろうとしたリーダー「孫文」への支援を続け、1911年の辛亥革命を成功させた陰の功労者でもあります。
10代の頃の滔天は、“自分が追い求めるべき理想像”を明確にするために、徳富蘇峰らが教鞭をとった大江義塾で学ぶなど、理想に向かい学ぶ環境を変え続けます。
そこで、キリスト教にこそその理想があると考えるようになり、キリスト教による理想社会を追及するようになります。しかしながら、兄・彌蔵らの影響で、キリスト教国家がかえってキリスト教を利用し、他国を抑圧している現実を知り、キリスト教を棄教し、いわゆる「アジア主義」を標ぼうするようになります。日本を含むアジアの国々が近代国家になるために、アジアどうしで連携し、独裁政治を打倒していく同時に、欧米からの抑圧も防いでいくというものです。
そして滔天がアジアの未来を託せる人物として見抜いたリーダーが、中国の「孫文」や、朝鮮半島のリーダーであり、日本・朝鮮・中国の三国が互いに同盟を結んでアジアの衰運を挽回するべきだという『三和主義』を唱えた「金玉均」などでした。
とくに、孫文に対しては、革命のための戦いに敗れ、当時の権力者側に殺害されようとして日本に亡命していた時に、熊本県荒尾市にある実家にかくまってあげています。
その際、地主の家系として裕福だった滔天の家柄でしたが、アジアの革命家らの支援などで経済的にはどん底にような状態であり、孫文を入浴させるための薪すらなく、近所にもらいに行ったというエピソードもあります。
また孫文自身も、そこまでして支えてくれた滔天やその妻の槌(つち)への恩を忘れず、夫を支えるために経済的に困窮している槌に対して資金を送ってあげたこともあるようです。
実際には、自分が目指したものに対しては一途でありながらも、破天荒であり、一時は「浪曲師」になるなど、一般の人たちには理解されがたい行動が多かったことも、滔天の評価が定まらない理由の1つかもしれません。
一介の浪曲師になった滔天の姿は、人々の目には、単に夢をあきらめた人物としてしか映らず、多くの人たちに陰口を叩かれたり、あざ笑われることも多かったようです。
しかしながら、滔天の本当の思いはその逆であることが、当時執筆した自伝『三十三年の夢』で明らかになり、なおかつ、その本の中に「中国革命の失敗の原因」が詳細に書かれていたことから、中国語に訳されたこの本によって、近代化のための中国革命が中国本土で息を吹き返します。
さまざまな紆余曲折がありながらも、生涯、アジアの近代化、中でも中国の近代化への思いがぶれず、滔天は中国革命へ支援を続けました。そうした滔天や滔天を啓蒙した兄たちに対し、孫文は「革命におこたらざるは宮崎兄弟なり」との言葉を残します。
なお、滔天の陰に隠れがちですが、実は、妻の槌(つち)こそが中国革命の真の功労者ではないかと言われるほど、夫である滔天を陰で支え続けました。
今の時代なら考えにくいことですが、滔天は妻の槌に「革命のための金はできるが、妻子を養うための金はできない」と言い放ち、ほぼ家庭に仕送りをすることもなかったそうです。
そのようにお金に窮する中であっても、子供たちを育て上げ、時には、夫の革命運動を支えるため、荒尾の実家に出入りする中国革命に関わる人たちをもてなしました。また、滔天がほかの女性との間でもうけた子供まで、わが子として養ったとまで言われています。
1922(大正11)年、宮崎滔天は51歳でその生涯を終えました。滔天がその人生で成したことを評価する際、それを支えた妻・槌の功績を含めながら、滔天が具体的にアジアの歴史を動かした事実を顧みる必要があるかもしれません。
(宮崎滔天の言葉) 余は人類同胞の義を信ぜり、ゆえに弱肉強食の現状を忌めり、余は世界一家の説を奉ぜり、ゆえに現今の国家的競争を憎めり (宮崎滔天著「三十三年の夢」より)
<関連する場所> 宮崎兄弟資料館(宮崎兄弟の生家) 大江義塾跡(徳富記念園)