”熊本の維新”
明治期に入ると、肥後熊本藩主を務めていた細川韶邦が熊本藩知事となり、1870年、弟の細川護久が第2代熊本藩知事に就きます。それ以降、”熊本の維新”と呼ばれるほど、近代化が推し進められます。その背後には、熊本出身であり、幕末から明治初期において日本を先導した″維新十傑”の一人、「横井小楠」の存在が大きく関わっています。小楠の弟子たちで「実学党」と言われた改革派の面々がさまざまな分野で活躍しました。
明治初期には、元軍人のⅬ.Ⅼ.ジェーンズが教師を務め、結果的に“熊本バンド”の出発点ともなった「熊本洋学校」。西洋医学の基礎を教え、北里柴三郎らを輩出、現在の熊本大学の出発点ともなった「古城医学校」などが開設され、その後の日本の近代化を牽引する人財たちが輩出されます。
日本近代化の拠点、そして、光と影
また、明治中期には、熊本に当時の最高学府として「第五高等中学校」(=のちの「第五高等学校」。通称“五高”)が開設され、現在も続いている「九州財務局」「九州農政局」「九州総合通信局」など、九州の行政機関の中枢が熊本に置かれました。
そのように日本の近代化を牽引する役割を担いながらも、一方では、日本古来の文化を否定するような近代化や、西洋と同化するだけに見える改革に反対あるいは修正しようとする強烈な動きが起きた地でもあります。代表的なものには、神道の神主らが中心になった起きた「神風連の乱」や、“田原坂”など熊本が激戦地となった「西南戦争」があります。これらの内乱は、近代化を推し進める日本に強烈な爪痕を残しました。また、この2つの内乱は、トム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」のモデルになったと言われています。
日本が近代化を強力に進めた“光と影”が色濃く残る熊本ですが、熊本大学内にある「五高記念館」「工学部研究資料館」や、第五高等学校(五高)の英語教師を務め、後に日本の文学を世界的なものにした文豪・夏目漱石の足跡などを通し、日本の近代化への歩みをたどることができます。
㊤写真=熊本市内の高橋公園にある「横井小楠と維新群像」 ㊦写真=熊本大学の黒髪キャンパス内にある「五高記念館」