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嘉納 治五郎(かのう じごろう)

2021年に開催された東京オリンピックはまだ記憶に新しいですが、今では国際的なスポーツとなった「柔道」の生みの親であり、アジア人として初めて国際オリンピック委員会委員を務めた「嘉納治五郎」の存在感は、今なお衰えることがありません。そこで今回は、熊本において第五高等中学校(五高、後に第五高等学校)の第3代校長も務めた「嘉納治五郎」(=以下、治五郎)を紹介します。

治五郎は、1860年、摂津国(現在の神戸市)に生まれました。ちょうどその前年に「安政の大獄」がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が終焉を迎えようとする、まさに激動の時代に生を受けています。

父次郎作は3男2女に恵まれ、嘉納治五郎はその3男として生まれました。11歳の時に父とともに上京し、漢字、書、語学などを学び、18歳の時に開成学校(東京大)に編入。学生時代、体の弱かった治五郎は先輩にいじめられることも多かったといい、そのことが、非力な者が強いものに勝つという「柔術」に関心を持つきっかけになったようです。こうして治五郎は、天神真楊(しんよう)流福田八之助に入門し、初めて柔術を学びます。

その後も柔術に対し研究を続け、『柔道』の出発点として、1882(明治15)年、東京・永昌寺で嘉納塾「講道館」を創立します。治五郎は、柔道の修業の目標はあくまで『教育』であるとしています。

もともと柔道の母胎である柔術とは、武器を持たず、武器を使う相手から自分を防ぐというもの。その柔術のさまざまな流派の優れたところを集め、『柔道』という高い精神性を持つ武道・スポーツへと高めました。

1891(明治24)年に、治五郎は、現在の熊本県上天草市にあたる、大矢野町出身の竹添進一郎の娘、「須磨子」と結婚しています。結婚後はすぐに熊本にある第五高等中学校の第3代校長を任じられ、夫人を東京に残し、単身、熊本に赴任しました。

1891年8月~93年1月までの在任中、五高の生徒控所の土間の上に畳を敷き、「端邦館」と名づけ、治五郎自ら柔道を教えました。また、1892年には、熊本市坪井町に「熊本講道館」を設立しており、まさに今日の熊本の柔道の基礎はこの時につくられたと言えます。

治五郎が揮毫し、道場に掲げた「順道制勝 行人不害」の言葉が、現在の熊本大学の体育館前に碑として残されています。意味は「道にしたがって勝利をおさめること、行いにおいて人を害さないこと」であり、これは今なお、講道館柔道の基本理念となっています。

治五郎は文部省参事官、貴族院議員などを経て、国際オリンピック委員会(IOC)委員として第五回ストックホルム大会に初参加することになります。

その一方で、当時の日本は“スポーツ後進国”であり、オリンピックに選手を派遣する組織すらありませんでした。そのため、治五郎はスポーツが盛んだった東京帝大、早稲田大などに呼びかけ、1911(明治44)年に大日本体育協会を設立。日本がスポーツで国際舞台に活躍するための道づくりに奔走しました。

その結果、現在の熊本県玉名郡出身で、当時は東京高等師範学校の学生だった「金栗四三」がマラソン選手として出場を決めますが、このことを治五郎は大変喜んだそうです。

五高の校長も務めていた嘉納治五郎の姿は、日本という国の価値を引き上げる”真の愛国者”であり、”真の国際人”としての姿を、今なお私たちに教え続けてくれています。

(嘉納治五郎の言葉)
勝って、勝ちに傲(おご)ることなく、負けて、負けに屈することなく、安きにありて、油断することなく、危うきにありて、恐れることもなく、ただただ、一筋の道を踏んでゆけ。
<関連する場所>
熊本大学(黒髪キャンパス)
五高記念館




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