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菊池 武光(きくち たけみつ)

九州や熊本の恐ろしさを日本全体にとどろかせながらも、その“電撃的”過ぎる活躍に加え、今から時代が離れ過ぎた“中世”という時代ゆえに、物語のようにしか取り扱われない人物がいます。それが、「菊池武光」です。

菊池武光は、現在の熊本県にあたる地域だけではなく、九州のそれ以外の地域にも“菊池一族”として実力が認められていた豪族「菊池家」の第15第当主になります。

若いころから武功に秀でており、戦(いくさ)では負けることがなかったため、後にヨーロッパを電撃的に支配下に治めていった『ナポレオン』の活躍にも通じるところがあります。

まさに“戦えば敵なし”と言えるほどの武光でしたが、その実力を誰よりも欲している人物がいました。それが、鎌倉時代から室町時代への移行期にあたる「南北朝時代」の南朝・後醍醐天皇の子、「懐良親王」(かねながしんのう=注1)です。

南朝を軍事面で支え続けた「楠木正成」の死後、南朝側は形成を逆転するため軍事的リーダーを必要としていました。そこで、南朝の懐良親王は、九州の実力者としてすでにその名をとどろかせていた武光に接近を図ります。

当時は、福岡からのルートはすでに足利尊氏率いる北朝に封鎖されていたため、慎重を期し、四国からのルートで九州に入り、1348(正平3)年、ようやく懐良親王と武光の歴史的出会いが実現します。

その後の2人は、怒涛のごとく九州を北朝の勢力圏から奪還し、1361(正平16)年に大宰府攻略に成功することをもって、実質、九州すべてを南朝の勢力圏に治めます。

すでに北朝の勢力圏にあった『九州』にあって、実力者として知れわたっていた菊池武光が、弱冠16歳ほどであった南朝の懐良親王をどのように迎え入れ、志を同じくしていくのか?

もちろん、武光以前から菊池家が後醍醐天皇に忠誠を尽くしていたことに加え、懐良親王と武光の2人にだけ見えていた“共通の夢”があったとも言われており、謎めいていながらも、何かドラマのワンシーンを見るようでもあります。

その後、さらに日本全体を奪還しようとして、1368年には大軍を編成し東進するも、有力な豪族の裏切りなどによって失敗に終わり、逆にその後は北朝側に攻勢を許すことになります。

さらに追い打ちをかけるように、1373年、南朝側の軍事的指導者であった武光が亡くなり、52歳の波瀾万丈な生涯に幕を下ろします。九州を駆け巡り、南朝一色に染め上げたこの英雄の死により、南朝の衰退が加速し、南朝は最後、八代市に征西府を移しましたが、1392(元中9)年の南北朝合体を迎え、事実上、南朝は消滅しました。

一時は、南朝の王国となった九州には、菊池武光や懐良親王に関係する多くの場所があります。武光を含む菊池一族のルーツである菊池市菊池神社、八代市の懐良親王高田御所跡、福岡県の大刀洗町や久留米の高良山などを通し、当時の九州に想いをはせることができます。

菊池武光や懐良親王が追いかけた“夢”を探し、その夢の続きを自分なりに思い描いてみるのも面白いかもしれません。

(注1)「懐良親王」の読みは「かねながしんのう」として語り継がれていることも多く、熊本県や八代市などでは、そちらの読み方を採用しています。ただし現在は、「かねよししんのう」の読み方を採用することも増えてきています。

(菊池家に関する言葉)
『吾が源、菊池にあり』と名乗った西郷隆盛。実は西郷は、自らのルーツを菊池一族に求めていたのです。
 西郷家に伝わる家系図によると、その祖先は菊池一族初代則隆に遡ります。則隆の子、政隆は、菊池本城の西、現在の菊池市七城町の西郷地区を与えられ、ここに居城増永城を築きました。そしてこの政隆から数えて26代目、昌隆の代で島津に奉公し、隆盛自身は32代目に当たるというのです。
(菊池市役所 経済部 菊池プロモーション室 菊池一族プロモーション係)
<関連する場所>
菊池武光公騎馬像(菊池市)
懐良親王御陵(八代市)
菊池武光銅像(福岡県三井郡大刀洗町)

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