明治維新後、熊本でも、後に“肥後の維新”と呼ばれる急速な改革が進められていきます。
その中心的な役割を果たしたのが、主に横井小楠の弟子たちからなる『実学党』のメンバーでした。そしてその改革の中で、もっとも中心と位置づけられたのが、「教育改革」でした。
熊本では、1871(明治4)年、熊本洋学校が開校し、同校の唯一の教師として、米国の元軍人・指揮官の「リロイ・ランシング・ジェーンズ」(=以下、ジェーンズ)が招へいされます。
熊本洋学校の特徴は、教師がほぼジェーンズ1人であったこともそうですが、彼が教えた外国語(英語)以外の数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物の授業もすべて、「英語」だけを使って行われたことです。ジェーンズが自ら作成した教科書も、すべてが英語で書かれており、当時、実際に使用された一部の教科書が、熊本県立大学に保存されています。
熊本洋学校の存続期間は、約5年間という短い期間であり、実学党から熊本県の運営の実権を奪おうとする「学校党」などの旧守派の画策によるものだったとも言われています。
なお、旧守派による追求のやり玉にあげられていたのが、「熊本バンド」でした。
当時、ジェーンズ本人にはそのような計画はなかったのですが、英語で授業を行いながら、生徒たちに英語による理解力やコミュニケーション力がついてくるにつれ、教師であるジェーンズに「キリスト教」に対する質問をするようになります。
そこで、キリスト教を学びたい一部の生徒を自宅に招き、ジェーンズ自らが「日曜礼拝」を行うようになり、生徒たちのキリスト教への探求欲はさらに深くなっていきました。
中には、キリスト教に帰依し、将来は日本をキリスト国家にするために貢献したいという者まで現れるようになり、日本のプロテスタントの潮流の1つである「熊本バンド」と呼ばれるグループを形成するに至ります。
こうした動きができつつあることに危機感を感じた旧守派のメンバーたちが中心となり、まずはそれを阻止するために、その原因をつくった「熊本洋学校」を廃止するという流れを画策したようです。
ただし、熊本洋学校に在学し、ジェーンズの教育の影響を受けた生徒たちには、後に日本に影響を与えるそうそうたる顔ぶれがいました。小崎弘道、海老名弾正、浮田和民、徳富蘇峰、横井時敬や、さらに、日本で初めて男女共学を行い、横井玉子・徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学しています。
なお、熊本洋学校が解散させられるにあたって、ジェーンズは生徒たちのその後の進路にとても苦慮したようです。最終的に、当時、日本初のキリスト教の大学として歴史を切り開いたものの、学生や教師の不足で運営に苦しんでいた同志社大学の前身にあたる「同志社英学校」への編入へと導きます。
同志社英学校は、実はこの「熊本バンド」の加入により、大学としての体(てい)を固めきれていなかった状況を脱し、現在まで続く名門・同志社大学の礎を築いていくようになります。このことは、熊本バンド出身者が、同志社大学の総長を歴任している事実からも見てとれます。
5年という短い期間で、原石を「人財」にしていく教育を行ったジェーンズの歴史的評価は、今なお高まり続けています。
(ジェーンズの言葉) (熊本洋学校で英語の演説を課していることの説明として) 将来、日本にも国会が開設される。人前で演説することが必要になる。演説は「技術」でなく「精神」であるので、精神修養によいのだ。 (~『ジェーンズ 熊本回想』より引用~)
<関連する場所> ジェーンズ邸 花岡山 奉教の碑 同志社大学