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夏目 漱石(なつめ そうせき)

夏目漱石といえば、東京や、小説「坊ちゃん」の影響もあり、四国の愛媛県松山市、あるいは、英国のロンドンといった地を思い浮かべる人が多いかもしれません。その一方で、漱石が熊本にいた4年3ヵ月も、文豪「夏目漱石」を形成する上で、とても重要な時期でした。

漱石は、本名を夏目金之助といい、1867(慶応3)年、現在の東京都新宿区にあたる江戸の牛込馬場下にて、名主であった夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末っ子にあたる五男として生まれました。

当時としては裕福とも言える家庭環境だったにもかかわらず、漱石がまだ1才のときに、夏目家に書生として仕えていた塩原昌之助の養子にさせられます。その後、その塚原と結婚していた、同じく夏目家の奉公人であった漱石の養母・やすとが離婚。さらには、その塚原と漱石の実父・直克が対立することにより、戸籍上は塚原家に入っている漱石は、子どもながらに複雑な状況に立たされることになります。

中退と度重なる転校により、少年期は勉強に身が入りにくい状況が続いていた中、漱石にとって転機になったのが、1883(明治16)年、英語を学ぶために入った、神田駿河台の英学塾だったようです。そこで、頭角を現した漱石は、その1年後に、大学予備門予科に入学。まもなく大学予備門は第一高等中学校に改称され、病気で進級が遅れたものの、学業に励んだ漱石は、ほとんどの教科において首席であり、中でも英語が頭抜けて優れていました。

また、この第一高等中学校時代に、文学的に影響を受け、親友として交流を続けた正岡子規と出会っています。

1890(明治23)年、創設間もなかった帝国大学(後の東京帝国大学)英文科に入学した漱石は、さらに英語力に磨きをかけるとともに、子規との交流により、俳句などを通し、文学的なセンスも開花させています。しかしながら、帝国大学卒業後は、高等師範学校で英語教師としてのキャリアをスタートさせるも、すぐに肺結核や神経衰弱などの病気に襲われます。

1895年には、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)に英語教師として赴任します。親友である正岡子規の故郷でもあることから、子規とともに俳句の創作活動にもさらに力を入れています。なお、漱石はこの時期から、職業としては「英語教師」、趣味や生活においては「俳句などを通した文学的な創作活動」というスタイルが定着しています。

1896(明治29)年、現在の熊本大学の前身にあたる第五高等学校(=五高)の英語教師として赴任した漱石は、熊本時代に妻・鏡子と結婚し、父親になるなど、中身の濃い4年3ヵ月を過ごしました。実にこの間、6回も転居を繰り返しており、その中には、今なお漱石の旧居として保存されているものもあります。

また、五高教師時代に、当時は五高生であり、後に日本を代表する物理学者となり、俳人でもあった「寺田寅彦」との交流が始まります。漱石を慕い、漱石によって俳句のセンスを開花させた寺田寅彦の存在は、漱石本人にとっても印象深く、その後の小説「吾輩は猫である」にも影響を与えているとも言われます。

加えて、旅行好きでもある漱石は、熊本時代に妻や友人たちと九州各地を旅しました。その中で、玉名市の小天温泉と阿蘇登山の旅が、後の小説「草枕」や「二百十日」を生み出すことにつながったと言われており、福岡市などを訪れた新婚旅行も、小説「草枕」に影響を与えたとされています。

愛媛の松山時代が1年、熊本にはそれよりも長い4年3ヵ月間も滞在したことから、熊本時代にはさらに多くの俳句を残しました。熊本時代に、漱石が生涯で詠んだ約4割にあたる約1千句の俳句を創作しています。現在も、「五高記念館」が残る熊本大学や、漱石が初めて熊本に降り立った「上熊本駅」付近には、漱石の像があり、それ以外の場所も含め、熊本には漱石が詠んだ俳句の碑が多く残されています。

なお、こうした話をすると、まるで漱石が旅行と文学活動だけを行っているように聞こえがちですが、五高時代の英語教師としての漱石の授業には定評があり、1897(明治30)年10月10日の開校記念日に教員総代として読んだ祝辞の一節「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ 師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」の言葉は、現代にも通ずる教育界の名言として、熊本大学の碑に刻まれています。

熊本時代に、文部省より英語教育法研究のため「英国留学」を命じられ、1900(明治33)年に漱石はロンドンに向かうことになります。このロンドン留学中に、精神的に追い詰められていく漱石ですが、その一方で、このロンドン留学が、文豪「夏目漱石」を生み出す転機にもなります。

言い換えると、日本文学の1つの結晶とも言える「俳句」などの文学活動が、漱石にとっての“(精神的に)生きるための活動”だったにもかかわらず、それができにくいロンドンという場所は、いくら当時の日本が目指していた「英国」であったとしても、漱石にとっては生きづらい場所でしかなかったのかもしれません。

そのように、熊本時代の漱石は、その後、大文豪になっていくための感性を磨き、揺るぎない“足場”を築いていた期間であったことは間違いないようです。

熊本に来なければわからない、“文豪・夏目漱石のルーツ”をぜひとも知ってほしいと思います。

(夏目漱石の言葉)
家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る。それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻って居るといふ絶景、実に美観だと思った。
(漱石が熊本時代を振り返り「九州日日新聞」に語った言葉。明治41,2,9に掲載)
<関連する場所>
五高記念館(旧制第五高等学校)
夏目漱石内坪井旧居
上熊本駅(旧・池田停車場)

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