世界では、第1回ノーベル賞候補者に名前を連ね、日本では“近代日本医学の父”と呼ばれる北里柴三郎(=以下、柴三郎)。偉大な医学者であることは何となく感じつつも、何がすごいのかはあまりわからない、という人も多いかもしれません。
柴三郎の出身地は、熊本県の阿蘇にある「小国町(おぐにまち)」という、今でこそ観光地としてそれなりに有名ではあるものの、都会と田舎という基準からすると、“田舎すぎるぐらいに田舎”だと言えます。
実家が庄屋であり、比較的裕福な家庭で育った柴三郎は、もともと軍人になりたいと考えていたようですが、親が入学を薦めた「古城(ふるしろ)医学校」に入学します。熊本大医学部のルーツでもある古城医学校は、熊本県が西洋医学を学ぶために、全国に先駆けて開校した学校でした。
同校には、のちに柴三郎と学問的・組織的に“対決”することになる緒方正規らが同期で入学し、机を共にしました。
最初はしぶしぶ学んでいた柴三郎でしたが、外国人教師のマンスフェルトと出会い、近代国家をつくるためには、軍人だけでなく、医学者や医者が必要であることを受け入れるようになります。
東京医学校(東京大医学部の前身)に進学した柴三郎は、成績は全体の中ではそれほど高くはなかったようですが、当時の内務省衛生局に就職後、ドイツのベルリン大に留学することになり、コッホの下で研究を重ね、短期間で「破傷風菌の純粋培養」という、当時は不可能と思われていたことを成し遂げました。
そのことで、当時は治療が困難であった「破傷風(はしょうふう)」の血清をつくり出すことに成功し、世界から注目を浴びる研究者となりました。
その頃に、「ノーベル賞」が設立され、柴三郎がノーベル医学賞の候補者にノミネートされます。実績からすると文句なしとまで言われていましたが、ふたを開けてみると、共同研究者のベーリングが受賞したにもかかわらず、柴三郎は受賞から漏れてしまいます。
このことは未だに議論を呼んでおり、正確なことはわからないままですが、西洋で出発したノーベル賞の第1回目で、アジア人が選ばれることに抵抗があったのではないか?という見方をする人たちも多くいます。
「世界的医学者」となった柴三郎は、欧米の研究所や大学から招へい受けますが、それらを固辞し、医学・医療の分野で日本を“強国”にしていく、という思いを胸に帰国します。
日本への凱旋帰国のはずでしたが、感染症への研究や対策に対する土壌がない日本に、柴三郎の居場所はありませんでした。そこで手を差し伸べてくれたのが、「福沢諭吉」でした。
両者は、日本を近代国家にふさわしい国にする、という考えで一致しており、福沢諭吉も私財を投じ、柴三郎のために「私立伝染病研究所」を設立し、その所長として迎えました。
その後、日本政府が同研究所の重要性を認め、「伝染病研究所」は官立となり、柴三郎にがそのまま所長を務めることになります。
ところが、政府の直管であった伝染病研究所が突然、東京帝国大医学部の下部組織になるという体制変更を告げられます。当時の東京帝国大には、医学部長などを歴任した、かつての古城医学校からの同期であった緒方正規もいました。
(※柴三郎と緒方正規は、“かっけ論争”などで学術的な火花を散らしてきましたが、学術面以外では、同郷の偉大な研究者として、互いに尊敬の念を抱いていたことがわかっています。)
西洋にも負けない近代国家をつくるために医学・医療面での強化が必要だと考えてきた伝染病研究所が、学術的な研究が主目的である東京帝国大医学部の管轄に入ることは、柴三郎にとってはあってはならい体制変更でした。
そこで柴三郎が決断したことが、国家の政策に影響を受けない「民間の研究所を設立する」というものでした。
柴三郎は伝染病研究所の職員たちには、そのまま今の研究所に残るように諭したものの、柴三郎の退職にともない、全職員が伝染病研究所の退職を決意。職員全員が、柴三郎が設立する民間の北里研究所に入ることを決断しました。これが、1914(大正3)年に起き、日本中の注目を集めた「伝研騒動」です。
給料が出なかったとしても柴三郎に着いていく。そういう思いに裏打ちされたスタッフらと共に、私立「北里研究所」がスタートします。
『国家に頼らず、国家に報いる』
その精神のもと、同研究所は日本社会全体の信頼を勝ち得ていきます。
柴三郎が“近代日本医学の父”と称される理由は、単に研究者としての実績だけではなく、こうした柴三郎の人間的な器の大きさにも寄るところがあります。
>日本社会が医学・医療面においても成長するに従い、日本には医学会や医療界にさまざまなグループが乱立するようなりました。それらをまとめ、「大日本医師会」(日本医師会の前身)としてスタートさせる案が出た際、その組織を出発させることができる人物は他にいないということになり、柴三郎が初代会長を務めました。
また、福沢諭吉への恩義は生涯忘れることがなく、慶應義塾大が医学部を創設する際、すでに柴三郎には確固たる地位と社会的名声がありましたが、初代医学部長就任を引き受け、医学部生たちからも、「親父(おやじ)」と慕われます。
ある時、柴三郎の長男の行動が当時のマスコミにスクープされ、その責任を取って柴三郎は学部長の辞任を決意します。誰の慰留にも耳を貸さなかった柴三郎でしたが、医学部生の全体を代表した11人が柴三郎の自宅に押しかけ、涙ながらに慰留を懇願し、柴三郎は辞任の決意を翻意します。
「俺もときには政府を向こうにまわして闘ってきた。しかし、今度という今度はお前たちに負けたよ」
このように柴三郎に言わしめた医学部生たちが、後に、日本の医学会や医療界を支える人財になっていきます。
私たちにとっては当たり前になっている現在の日本の医学や医療。実はそのどれもが、柴三郎抜きには語れないことばかりなのかもしれません。
(北里柴三郎の言葉) 「君、人に熱と誠があれば何事でも達成するよ。能(よ)く世の中が行き詰まったという人があるが、是(これ)は大なる誤解である。世の中は決して行き詰まらぬ。若(も)し行き詰ったものがあるならば、是(これ)は熱と誠がないからである。つまりは、行き詰まりは本人自身で、世の中は決して行き詰まるものではない」 ~柴三郎が親友の荒木寅三郎(後年、京都帝国大総長に就任)に贈った言葉 より~
<関連する場所や組織> 北里研究所 熊本大医学部(熊本大大学院生命科学研究部) 熊本大学病院 北里柴三郎記念館 日本医師会



