古代の熊本
『装飾古墳』は全国に660基ほどしかないとされていますが、実にそのうちの3割近くにあたる195基が熊本に集中しています。熊本県山鹿市にある「熊本県立装飾古墳館」には、古代の熊本を特徴づける『装飾古墳』など、古代の熊本への想像力をかき立たせてくれる多くの資料が展示されています。なお、同古墳館の建物は建築家・安藤忠雄氏の作品であり、前方後円墳である岩原双子塚古墳をイメージして、点対称の位置に建てられています。
また、熊本城よりも800年以上前に建てられたとされる、現在の山鹿市にある「鞠智城(きくちじょう)」は、東アジア情勢が緊迫した7世後半(約1350年前)にヤマト政権が築いた山城とされています。
663年の「白村江(はくそんこう)の戦い」で大敗したヤマト政権が唐(や新羅)の侵攻に備えて西日本各地に築いた城の一つで、西海道(九州)の統治の起点となった大宰府もしくは、その前身となった拠点を守るための支援基地と考えられています。
鞠智城の外観は、熊本城のような日本の城のイメージとはかけ離れており、中国や韓国などの城の形に似ています。朝鮮半島の「百済」から来た渡来人が城の設計に関わったとされています。
なお、熊本市内の古代から中世におよび歴史の遺物は、熊本大学の埋蔵文化財調査センターにも展示されています。
中世の熊本
中世における熊本は、九州の一大豪族として知られる「菊地一族」の活躍で知られています。同一族は、熊本県の北部、現在の菊池市を中心に、平安時代の後期から室町時代にかけての450年にわたって活躍した武士の一族であり、源氏物語、蒙古襲来絵詞、太平記など、名だたる書物にその足跡を刻み、中央にまでその名を轟かせていました。
足利尊氏と後醍醐天皇が対立した「南北王朝時代」には、劣勢であった南朝の拠点を熊本に置き、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねよししんのう)を最後まで守り支え続けた忠誠心も、菊地一族の物語を色あせないものにしています。
一つ残念なのは、そこまで活躍した菊地一族でありながら、歴史的な資料があまり多く残されていないことでしょう。しかしながら、北方謙三氏の小説「武王の門」などの小説やさまざまな本が、懐良親王を支えた菊地武光をはじめ、菊地一族が活躍した時代へといざなってくれます。
画像㊤=熊本県山鹿市にある「チブサン古墳」 画像㊦=熊本県八代市にある「懐良親王御陵」