熊本の魅力と歴史 ~加藤清正の時代以降~

加藤清正と熊本の歴史

現在の熊本の“グランドデザイン”を行った人物は、歴史を探してみても、加藤清正(1562-1611)の右に出る者はいないようです。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、肥後熊本藩初代藩主の「加藤清正」は、もともとは豊臣秀吉の子飼いの家臣であり、秀吉とは遠い親戚関係にあったと言われています。

清正が1588年に熊本入りしてから、亡くなる1611年までの間、熊本を統治しました。現在の熊本城の天守閣などの建物は西南戦争で一度消失したため、厳密には復元したものですが、私たちが目にしているものと同じ「熊本城」を建立し、熊本の生産性を高めるため、農地改良や土地改良を行い、農民たちからも崇められる存在でした。

実際、日本三大名城の一つである熊本城は、“武者返し”と言われる、反り返るほど精度の高い石垣の迫力に圧倒されます。ただし、2016年の熊本地震で石垣の一部が壊れており、現在も修復工事が行われています。一方、天守閣などの建物は無事に修復工事を終え、さらには、約242mの長さがあり、現存する城郭の塀の中では最長を誇る「長塀」も修復工事を終えました。その一方で、石垣の一部の修復工事にまだ多くの歳月を要するのは、清正の指揮によって、それほど精密な石垣を組んでいたことを証明する結果でもあります。

加藤清正は、築城の天才という異名を持つ一方で、“土木の神様”とも言われています。実際に、荒れ川として農民たちを苦しめ続けてきた「白川」の治水工事を行い、”横島の干拓”など大規模な干拓事業を実施し、”鼻ぐり井手”など、当時の画期的な土木技術を編み出し、今なお活用されている遺構もあります。

また、加藤清正の秀吉に対する忠誠心は生涯変わることなく、江戸時代に入り、徳川家康に仕える立場になっても、豊臣家の存続を願い、豊臣秀頼に懇願し、家康との二条城での会見を実現させています。しかしながら、その会見の数か月後、熊本に帰る途中の船で発病し、急死したことが今なおさまざまな憶測を呼んでいます。ちなみに、清正が生涯にわたり恩義を感じ、存続を願った豊臣家は、大阪の陣により、二条城の会見から5年も経たないうちに滅ぼされる結果となりました。

細川家と熊本の歴史

加藤清正の死後、三男の忠広が加藤家の家督を相続しました。ただし、年齢も11才と若く、清正の死後に熊本藩で生じたさまざまな問題を、息子の忠広では対処しきれないと判断した江戸幕府は、加藤家に改易を命じます。

その後、肥後熊本藩の統治を任されたのが、小倉藩主の細川忠興とその息子、細川忠利になります。忠興の妻であり、忠利の母であるのが、ミュージカルなどにもなった”ガラシャ夫人”として知られる「細川ガラシャ(細川玉)」です。また、忠興とガラシャの結婚を仲介したのが、織田信長であり、ガラシャの父は、信長を死に至らしめた明智光秀です。加えて、豊臣秀吉が天下を治めた後も、絶世の美女だと言われていた妻のガラシャに対し、夫の細川忠興は、「秀吉の誘惑に乗らないように」と忠告していたと言います。細川ガラシャは、徳川家康の天下を決定する関ヶ原の戦いで壮絶な死を遂げていますが、辞世の句として『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』を残したことはあまりにも有名です。そのように、安土桃山時代から江戸時代に至るまでの歴史が凝縮したような女性が、細川ガラシャであったのです。

熊本市の泰勝寺跡には、肥後熊本藩主であった息子の忠利が、母・ガラシャを慰霊するために建てた御廟(お墓)があります。また、細川忠興は、秀吉と並ぶ、織田信長が認める戦国武将の一人でありながらも、千利休に師事し、「茶道」を愛する茶人でした。最後は秀吉との間に深い溝が生じ、利休が秀吉に蟄居を命じられた際、忠興は古田織部とともに淀の船着場まで利休を見送っています。泰勝寺跡には、茶道にかけては国内随一といわれた細川忠興の原図に基づいて復元された茶室「仰松軒(こうしょうけん)」もあります。なお、千利休の茶道を忠実に受け継いだとされる忠興から始まった熊本の茶道は、「肥後古流」として今なお熊本を中心に受け継がれ続けています。

細川忠利の藩主時代には、宮本武蔵を熊本藩に客分として招き入れました。熊本時代の武蔵は、晩年まで金峰山(きんぽうざん)山麓にある洞窟「霊巌洞」に籠もり、人生の集大成として兵法書「五輪書(ごりんしょ)」を書き上げました。そのほか、武蔵は熊本で絵画などの芸術作品をいくつも残しています。それらは、宮本武蔵の美術館としても知られる熊本の「島田美術館」にも展示されています。

肥後熊本藩主第3代の細川綱利は、忠臣蔵で知られる大石内蔵助を含む赤穂浪士17人を預かり、幕府の命令により切腹するまでの間、厚くもてなしなことでも知られています。日輪寺に建てられた供養塔・遺髪塔は今なお現存しており、毎年2月4日の義士命日には「日輪寺義士まつり」が行われ、慰霊祭が行われています。

細川時代に生まれたさまざまな文化財や文化活動、芸術作品は、今なお多く残されています。加えて、元首相であり、細川家18代当主の細川護煕氏が理事長を務める公益財団法人「永青文庫」では細川家の歴史資料や美術品などの文化財を管理保存し、一般に公開しています。また、熊本大学の「永青文庫研究センター」では、数ある大名家資料群のうちでも質量ともに最高レベルにあるとされる細川家の永青文庫資料を、学術的に調査・研究しており、細川家や熊本にとどまらない、日本を深く知る発見につながっています。

㊤写真=熊本城近くの「加藤清正像」
㊦写真=熊本藩初代藩主・細川忠利から数代をかけて整備された「水前寺成趣園」

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