異国の地におけるハンセン病救済に捧げた人生として、世界的に見ても賞賛され続けるべき英国人の女性2人がいます。2人は熊本市内の納骨堂の中に、当時、家族からも縁を切られた、身寄りのないハンセン病患者らと共に埋葬され、安らかに眠り続けています。
熊本であっても、名前だけは聞いたことがある、というぐらいの人が多く、日本全体ではなおさら知らない人の方が多い英国人女性たち。その名前が、ハンナ・リデル(Hannah Riddell)とその姪(めい)のエダ・ハンナ・ライト(Ada Hannah Wright)です。
道を切り開いたハンナ・リデル
英国キリスト教(英国聖公会宣教協会)の伝道師として日本、さらには熊本に来たのが、ハンナ・リデル(=以下、リデル)でした。リデルは1891(明治24)年から赴任先である熊本で暮らし始めます。そしてこの熊本で、リデルの人生を決める衝撃的な出来事に遭遇します。
熊本で友達となった第五高等学校(=五高)の教授らに誘われ、リデルが本妙寺に花見に行った際、お寺の本堂付近や参道に集まっているハンセン病の病人らを目撃します。
ハンセン病は当時、「らい病」や「らい」と言われ、指や鼻などが変形していく症状があることから、この病気を持った人は、まわりの人々から不治の病、伝染病、呪われた病気、などと偏見を持たれ、差別されていました。
実際に、ハンセン病を持った人が家族にいるだけで、その人以外の家族も差別を受けたり、結婚もできなくなるため、ハンセン病にかかった人は戸籍からも抹消される、という扱いまで受けていました。
そのように、日本では人間扱いされず、見捨てられたような存在になっていたハンセン病の病人らを目撃したリデルは、「神はこのハンセン病の病人救済のために、私を日本に送ったのではないか?」と考えるようになります。
リデルは英国時代、すでに20歳の時には、母親が経営する小さな私立学校の教師を1人で務めていたとされています。それほど、リーダーシップに富んでおり、何ごとにも物怖じしない気丈な性格の持ち主でした。そうしたリデルの性質は、熊本のみならず、日本におけるハンセン病救済のためにいかんなく発揮されました。
英国や日本で賛同者を募り、私財も投じてハンセン病の病人救済のための事業にとりかかり、1895(明治28)年、ハンセン病療養所「回春病院」を完成させます。
その後、当時としては画期的な「ハンセン病菌研究所」も立ち上げ、1918(大正7)年、研究所の建物が完成しています。なお、同研究所の建物は、「リデル・ライト両女史記念館」として現在も使用されています。
リデルは、当時の首相であった大隈重信の軽井沢の別荘にまで出向き、ハンセン病救済のための寄付金を直談判しています。また、大隈重信が渋沢栄一に働きかけ、画期的な「ハンセン病救済講演会」も開かれました。こうしたことがきっかけとなり、1907(明治40)年、『らい予防法』の発布されました。
ハンセン病自体がまだ解明されていない時期に発布されたこの法律は、現代からすると不完全なものでしたが、ハンセン病の病人らが社会から抹消されるしかなかった当時の日本社会にとっては、それでも画期的な1歩でした。
そのようにして病院の運営資金を確保するなど、リデルでしか切り開けなかったであろう道を切り開き続けます。
愛情を注いだエダ・ハンナ・ライト
エダ・ハンナ・ライト(=以下、ライト)は、英国時代、母親や姉のような存在でもあった叔母のリデルのサポートがあり、スイスに留学しています。その後は、女性宣教師養成学校に通学しながら、卒業後は日本でのリデルの事業をサポートすることを思い描いていたようです。リデルとは対照的に、ライトは物静かで温和なタイプでした。
1896(明治29)年に来日した後は、当時所属していた英国聖公会宣教協会の許可が下りず、鹿児島、東京、浦和などを経て、リデルとともに回春病院で働くことができるようになったのは、1923(大正12)年になってからのことでした。リウマチなど病気がちだったライトを支え、ハンセン病患者たちに真っすぐに尽くしていきます。
ライトはいつも普段着で患者たちと接し、部屋を訪れては手を触れて話しかけることを行っていました。患者たちも彼女の優しさに触れ、涙を浮かべることもあったと言います。
ところが、1932(昭和7)年、精神的な支柱であった叔母のリデルが78才で亡くなります。その後、ライトはさまざまな波乱の日々を迎えることになります。
1935(昭和10)年以降、ライトはハンセン病菌研究所の2階に直接住むようになります。一方、日英開戦が近くなるにつれ、ライトが短波受信機を持っていたため、特高警察にスパイ容疑で監視されていました。なお当時は、回春病院の隣にある五高の外国人教師らも、ライト同様、監視されていたようです。
イギリスからの寄付も減少し、回春病院の事務長も特高警察に身柄を拘束されるなど、経営が窮地に追い込まれたことから、1941(昭和16)年、回春病院は閉鎖に追い込まれます。ハンセン病患者たちの動揺を防ぐために、閉鎖の可能性があることはいっさい患者たちに知らせておらず、当日その場で急に閉鎖を知った患者たちは、あわただしく身の回りのものだけを持ち、新しい収容先に向かうためにバスに乗せられました。
ライトは出発するバスにしがみつき、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝り続けていたことが目撃されています。
その日のライトのメモには、「政府は私から親愛なる患者を奪い去った。そして病院は空っぽになった」と記されています。
国外追放され、オーストラリアに亡命したライトは、戦後の1948(昭和23)年、再び熊本へ帰って来ます。その時、ライトは78才でした。その1年8ヶ月後、”ふるさと熊本”で80才の生涯を終えます。
彼女の最後のメモには「私の一生は神様のお恵みにつつまれて、大変幸せな生涯でした」と記されています。
多年にわたりハンセン病救済事業に尽力したとして、天皇、皇后、皇太后から祭粢料を賜っています。
ハンセン病患者の人間性回復のために生きた2人。熊本の地に眠り続ける
当時の回春病院での研究も刺激となり、世界でも飛躍的にハンセン病の研究が進み、現在ではハンセン病は治療できる病気となり、発生率自体も限りなく小さくなっています。
リデルは回春病院の敷地内に、家族と同じ墓に入ることすらできないハンセン病患者たちが亡くなった際に入る「納骨堂」をつくっていました。日本でハンセン病の病人救済のために生きると覚悟を決めた時から、リデル自身も自分の遺体の埋葬場所はハンセン病患者たちと同じ場所だと決めており、患者を愛し続けたライトとともに、“自分の家族”であったハンセン病患者らの納骨堂に埋葬され、今も安らかに眠りづけています。
(リデル、およびライトの言葉)
「日本が駆逐艦一雙の費用 を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決します」
~リデル・ライト:「ハンセン病救済講演会」での演説にて~
「私の一生は神様のお恵みにつつまれて、大変幸せな生涯でした」
~エダ・ハンナ・ライトの人生最後のメモより~
<関連する場所や組織>
リデル、ライト両女史記念館
社会福祉法人リデルライトホーム
本妙寺
菊池恵楓園歴史資料館




